エヴァンゲリオン?
1 名前: スズダル中佐 投稿日: 2002/01/18(金) 21:49
臨床家/学者のサイトから。

Evangelion分析

http://www2p.biglobe.ne.jp/~you_/eva.html

2 名前: チーフなも 投稿日: 2002/01/30(水) 17:50

「動物化するポストモダン」(オタクから見た日本社会)
東 浩紀 660円
講談社現代新書1575

ちぅ、本を読んでる。新書なのに、読むために本棚から何冊もの専門書を引っ張り出して参考にしなければならないくらい、高密度な、本。

でも一方で、「萌え」の心性や、HTMLと画面との関係など、とっつきやすい話題もある。

難しくて、なも自身のデータベースに取り込んで使えるような形に出来るかは、判らない本だが、エヴァンゲリオンを、単純に「卒業」せずに、とらえ直そうとする筆者の姿勢が、カッコいい。

若者が読むほうが、感覚的に理解できるかも。

3 名前: スズダル中佐 投稿日: 2002/02/02(土) 18:52

http://www2p.biglobe.ne.jp/~you_/index.cgi
精神分析&対象関係理論のウェブサイト

http://www2p.biglobe.ne.jp/~you_/eva.html
Evangelion in view of the Object Relational Theory
対象関係論の観点から見た「エヴァンゲリオン」

Overview

 「新世紀エヴァンゲリオン」はガイナックス制作、庵野秀明監督によるアニメーション作品です。
 さまざまな外傷体験を抱えた登場人物と謎めいたストーリー展開、そして物語の完結を放棄したようなTV版の最終回、そして映画2作による完結編と、熱狂的な人気を誇りました。
 ここでは登場人物の性格分析に迫ってみたいと思います。

[使徒]
 使徒については、フロイトの二重本能論をまず連想します。生のエネルギー、リビドーをエヴァが表すなら、死の本能、攻撃性、破壊衝動を使徒が表すわけです。死の本能を仮定する理論家は、必ずそれがどのように和らげられるかというプロセスについても理論を構築しなければなりません。クラインであれば、それは攻撃を含みこんで(コンテインして)くれた母親に対する感謝の気持ちです。自我心理学者達は、中和化(ハルトマン)、対象恒常性の確立(マーラー)と呼んでいます。この物語では、生のエネルギーが、死のエネルギーに汚染されると言う点が特徴的でしょう。精神汚染とはこのことを意味するものと思われます。

4 名前: チーフなも 投稿日: 2002/02/09(土) 02:57

 アニメ「エヴァンゲリオン」FAQ
http://www.age.ne.jp/x/kasaya/emg/faq.html

アニメ放映中からマニアが作っていた資料集サイトです。

番組がカルト的な人気を得ていた当時、実は、宮崎ではTV放映されなかったので、関東からきていた生徒の話題についていくために、苦労してヴィデオを入手して見た思い出があります。四話分まとめて見ると、すごく、疲れます・・・。

5 名前: チーフなも 投稿日: 2002/02/09(土) 15:44
>>2
 東 浩紀 の660円の本を読み解くための参考書として、
「郵便的不安たち」東 浩紀 朝日新聞社 2600円、購入。

 『過視的』という状況にリンクした気分『郵便的不安』、たぶん、「ん〜、的心性」と重なるものだと感じるのだが、それを、超難解な哲学者デリダのエクリチュール(言述)とオタク的スタンス・間合いの観点に重ね書きしている、らしい、本。

 とほほなことだが、同じ著者の「存在論的、郵便的」ジャック・デリダについて(新潮社)という哲学書を、参考書として購入する必要がありそうだ。

6 名前: チーフなも 投稿日: 2002/02/09(土) 15:49

東 浩紀の個人ウェブサイト
http://www.hirokiazuma.com/

7 名前: チーフなも 投稿日: 2002/02/09(土) 16:01
>>2
「動物化するポストモダン」(オタクから見た日本社会)
東 浩紀 660円 講談社現代新書1575
毎日新聞の書評。
http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0127/03.html

8 名前: スズダル中佐 投稿日: 2002/03/01(金) 21:28
http://www.mediaworks.co.jp/special/alt/
新世紀エヴァンゲリオン
 いわずとしれた一世風靡作。サンプリング/カットアップ/リミックスに代表されるポスト・モダンなシミュレーション技法を極限までつきつめたサブカルチャーの最終消費形態、もしくは最終殲滅形態。事実上、エヴァによってサブカルチャーは意味を失ったと言ってよい。「人類補完計画」と称されるプロジェクトをめぐって展開する「戦争」を描いて一大社会現象に発展。西洋オカルティズムから膨大な量のシンボルを引用し、精神分析を思わせる手法でそれらの意味を無限にズラし続ける演出によって多大な論議を巻き起こした。綾波レイに代表される特異なキャラクター設定や、「使徒」とよばれる敵の形状デザイン、さらには明朝の文字を挿入しつつめくるめく展開される編集技法も従来のアニメ作品に例を見ない。以下では本作品について、主にその形式、さらには歴史的背景といった側面から考えてみたい。
 ジャンルを超えて人気を獲得したアニメとしては、かつての『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』に系譜する。が、エヴァにおける舞台設定は、敵と味方、正義と悪といった価値観が固定されていた前者、そこから一歩進んで両陣営をめぐっての善悪の相対性や交流の可能性を描いた後者とくらべても、さらにいっそう先に進んでいる。「使徒」と呼ばれる素性の知れない「敵」は、実のところ「殲滅」されることを目的とされており、人類補完計画を実行しようとする一部人類の要請によって派遣されている。もっとも、ここで肝心なのは、味方のなかの敵、敵のなかの味方といった相対性の描写ではないということだろう。むしろ、「敵であること=敵でないこと」、「味方であること=味方でないこと」、さらには「自分であること=自分でないこと」、「逃げ出すこと=逃げ出せないこと」というふうに、エヴァにおける二元論の無化は「両性具有」的というよりは、哲学の脱構築理論でいうところの決定不能性に近い。
 こうした設定に、電子情報資本主義の子宮回帰的自閉を反映するとの意見もあるようだが、たとえそのような反映があったとしても、ヤマトやガンダムに見られる素朴きわまりない物語性の黙認から、物語に呪縛されざるをえないアニメというジャンルの貧しい素性を直視し、みずから腑分けできるだけの冷酷な次元に達したことは積極的に評価してよい。エヴァが、サブカルチャーの歴史を構成するすべての要素をバラバラに分解し、たがいに置き換え、創作よりも編集を重視しているのはそのためである。その意味では、エヴァの「物語」が一向に先に進まなかったり、中途で挫折することを安易に批判することは賢明な態度とはいえない。エヴァは結果的に2本の劇場公開作を生み出したが、同時期に公開され、記録的な大ヒットとなった宮崎駿の『もののけ姫』と比較した時、そのことは明白だろう。いかに「よく動く」とはいえ、結局のところ素朴な文明批判でしかない『もののけ姫』は、自然と文明との対立においても、両者を媒介する主人公の役割においても、その矛盾を解決するだけの理念も、矛盾を矛盾として直視する勇気もないまま大河ドラマ風音楽を大音量でがなりたて、物語を暴力的に終結させる。一方エヴァは、いかに完成度において劣るとはいえ、その不完全性は上記の要素に加えて自然と人工との境界を消し去る人工自然、終わることの不可能性と構造的反復、自己言及的悪循環といったモダン/ポストモダンな問いをアニメのレベルで実践することによって得られた必然的な結果である。ちょうど、わたしたちの生が「終わることのない非日常」に繋ぎ止められたまま、永遠のいまを奇妙なノスタルジーとともに生き続けるほかすべがなくなってしまっているように。

9 名前: スズダル中佐 投稿日: 2002/03/01(金) 21:31
>>8
新世紀エヴァンゲリオン、続き
http://www.mediaworks.co.jp/special/alt/
エヴァについては多くの論者による多角的な分析が試みられたが、以上のことをふまえるならば、エヴァを一大叙事詩のごとく解釈し、そこに一方的な神話学的ないしは象徴主義的分析を加えて「補完」(エヴァ補完計画?)することがいかに無益な読みであるかは明白だろう。むしろエヴァは、「アニメ」としての完成度を判断中止しても、それらを成立させる暗い基礎条件を問い直した、いわばアニメ基礎論ともいうべき性質を持っている。そのことは、綾波による「補完」をシンジが最終的には拒否して、地上の「気持ち悪い」自分に戻っていったことにも見て取れる。ある作品についての最高の批評が別の作品であるとするならば、エヴァに評論や解説の類は必要ない。それ以前に、エヴァンゲリオンという作品自体が、エヴァについてのもっとも含み深い評論行為となっているのだから。
 したがって、ここではやや別の角度から考えてみよう。漫画家の楳図かずおの作品に『14歳』(小学館)と題する作品がある。これは終戦後、日本に進駐してきたGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーが、欧米を成熟した大人にたとえると、日本人は未成熟な12歳にあたるとした発言を受けての設定であった。楳図はそれまでも、子供が子供のまま、大人の社会から切り離されて自立せざるをえない試練を、様々なかたちで描いてきた。小学校がまるごと人類の絶滅した未来社会にタイム・スリップしてしまう『漂流教室』(小学館)、幼い少年少女がセックスを経ずに自分たちの子供をつくろうとする『私は真悟』(小学館)など、いずれもそうである。これらは、『14歳』に典型的なように、しばしば荒唐無稽な舞台設定を持つため、幻視的な未来描写としてとらえられてきたが、そこには楳図独自の日本人論が展開されていたのではないだろうか。つまり、戦争に破れることによって成熟した西欧社会の産物である民主主義や市民社会に身を置かざるをえなくなった日本人の姿は、ある意味では『漂流教室』に描かれた小学生たちのように見えるのである。未成熟ではあってもそれらを血肉化し、制度化していかなければならなかった日本人は、まさしくおとなでもこどもでもない、いわば14歳的な存在であった。
 14歳といえば、エヴァとシンクロする能力を持った子供たちも14歳であった。なぜここで彼らが14歳であるのかはさておき、肝心なのは、この年齢が身体的にも精神的にも、そして彼らをめぐる社会的環境においても、男女の分化をはじめとする社会参入の条件が準備されるきわめて不安定な時期だということである。社会的にも精神的にも自立できていないにもかかわらず、戦闘や組織の中で一人前のおとなとしての任務を果たさなければならない彼らの様子は、どこかで楳図の設定を思わせるのである。と同時に、エヴァに代表される和製アニメそれ自体が、戦後、政治経済ばかりか文化においても、そのほとんどをアメリカに倣わなければならなかった日本が見よう見まねでうみだした、暗中模索の最終形態なのではなかっただろうか。いわば、漫画から和製アニメに至る戦後日本のサブカルチャーの系譜そのものが、どこかで「14歳」的な特徴をもつのである。
 日本のサブカルチャーを「14歳」をキーワードに探ってみることは、興味深い試みである。「漫画」は「コミック」とは異なる文法と形式を持つし、「アニメ」もまた同様である。それらをディズニーやハリウッドとの完成度や技術水準の比較で見るかぎり、「和製」はどこまでも劣るか、もしくは健闘を称えられるにとどまる。けれども、「漫画」や「アニメ」は、もはや理想的などこかへの途上にあるのではないし、そこには独自に評価されるべき固有性がある。楳図が描いた「14歳」の少年少女たちが、おとなになることなく、場合によってはおとなと敵対しながら、固有の秩序とコミュニケーションを見出していったように。

10 名前: スズダル中佐 投稿日: 2002/03/01(金) 21:33
>>8
http://www.mediaworks.co.jp/special/alt/
新世紀エヴァンゲリオン、続きの続き

 最後にひとこと。あらゆる時代、あらゆる地域の表象を土着の歴史的文脈から切り離し、自由に編集することによって生まれるハイブリッドな怪物=エヴァの背後にはこのように、日本の戦後に特有の非歴史性、未成熟性が見え隠れしている。したがって、そこに由来する無政府主義的自由(シミュレーショニズム)は、人を解放する享楽的な自由のように見えて、実際のところ解消不可能な自閉と紙一重だし、エヴァを見るかぎり、その疑惑は限りなくクロに近い。しかし、かといっていまさら「大人」しく歴史的思考を回復しようとしても、その行為自体が一種のキッチュになりかねないご時勢である。ましてや、エヴァについてのもっとも消極的な評価、オウム真理教が現実のレベルで行ったことを空想のレベルで殺菌消毒し、「作品」化した、とする向きに同調するのではもともこもない。何度も繰り返したように、エヴァのベクトルはあくまで物語破壊工作に向けられており、そうである以上、その成果は現実の物語や共同体を突き抜ける方向から外に開かれる必要がある。いっそのこと、この非歴史性を突き詰めるだけ突き詰めて、すべての馴れ合いが砕け散る次元まで行ってしまうというのはどうだろう? つまり、エヴァがアニメおよびサブカルチャーという「書誌」のレベルで行ったことを、自己追放やアイデンティティの分解、物語への嘲笑といったレベルで、自己の肉体と日常の次元で実際に生きてみること、である。そしてそのとき、エヴァに刻印された自閉の兆候ははじめて、「外」へ向かって開かれることになるだろう。
(椹木野衣)

11 名前: チーフなも 投稿日: 2002/03/27(水) 00:55
>>2
動物化するポストモダン
東浩紀・著<講談社現代新書・660円>
◇他者なしで充足できる社会はどこへ
 周辺的な表象を通して、現代社会の方向を読み解く。オタクを論考の対象にしたのは、むろん偏見を払拭するためではない。この記号性の強い文化消費はポストモダンの特徴をもっとも典型的にあらわしているからだ。
 オタクをめぐる誤解について、まず戦後社会の変化から分析が行われた。コミックやアニメの美意識は江戸文化に源流があるのではない。サブカルチャーの肥大化は日本社会のアメリカナイゼーションの一局面にすぎない。この指摘は本書の主要な論点を展開する上で一つの布石となる。
 シミュラークルの概念をオタク系文化に応用した分析は鮮やかだ。シミュラークルは直訳すれば「模造品」。プラトン哲学では否定的な意味で語られている。しかし、ポストモダンの思想家たちはそれに反して、現象と本質とのあいだに序列をつけない。そのため、原物と複製についても上下を区別する必要はない。たとえば、ハリウッド映画は現実のシミュラークルだが、地球規模での感性の標準化をもたらした意味で、むしろ現実を誘導する。
 マンガ、アニメやゲームの世界では原作が改作され、同好者向けに発表されることが多い。いわゆる「二次創作」のことである。本書で言うシミュラークルはおもにこの「二次創作」を指している。これまでのポストモダン論とちがうのは、シミュラークルとデータベースの相関関係が指摘されたことだ。すなわち、シミュラークルは無秩序に形成されるのではなく、その意味や様式はデータベースによって規定される。本書ではデータベースという言葉は通常の意味で用いられているが、もし同じ用語を隠喩(いんゆ)として読めば、理論としてさらに大きな広がりを見せるであろう。
 「データベース消費」は著者が提起した、もっとも重要なパラダイムである。コンピューター化した社会ではすべての情報が記号化され、データベースとして格納される。アクセスするたびに、検索エンジンを通って、読み込まれている。このシステムによって、文化消費の様式に根本的な変化が起きた。近代では意識に映る表層的な世界があり、その裏には表層を規定する深層(世界観/大きな物語)がある。日常のなかでは小説、マンガ、アニメからマイカー、マイホームなどにいたるまですべての文化商品が「小さな物語」として消費されている。だが、そうした「小さな物語」は例外なく「大きな物語」に規定され、あるいはその断片的な投影に過ぎない。

12 名前: チーフなも 投稿日: 2002/03/27(水) 01:00
>>11の続き
>>2
動物化するポストモダン
東浩紀・著<講談社現代新書・660円>

 ところが、「データベース消費」において、状況は一変する。データベースの背後には「大きな物語」はない。「小さな物語」は決まった形式で一方的に提供されるのではなく、ユーザーの読み込みによってさまざまに変形する。これを説明するのに、ノベルゲームの例が挙げられる。ノベルゲームとは小説的な展開を内蔵するゲームのことである。ただ、印刷された小説とちがい、一つのストーリーが提供されるのではない。プレーヤー/読者は問いかけられる質問に答えたり、選択肢を選んだりすることで、いくつもの展開や終わり方がある。作品のなかには世界観もなければメッセージもない。しかし、泣ける仕掛けが周到に用意されている。感情移入の要素はデータベースから読み込まれるが、プレーヤーによって組合せ方が異なるため、感動する場面もそれぞれちがう。そこには定食のような物語消費は消えてしまい、データベースそのものが消費される。
 データベース消費への転換は、他者がいなくても充足できる社会の到来を意味する。その間、消費者は不可避的に動物化する、と著者は説く。「動物化」は、フランス哲学者アレクサンドル・コジェーヴの用語を踏まえた表現である。人間は他者への情念が介在する欲望を持つが、動物は生理的な欲求しか持たない。たとえば、食べるという欲望はたんに食物に向けられたのではない。愛、友情、充足、親密、贅沢(ぜいたく)といった文脈のなかで発散される。生理的な欲求は反射的な行為によって満たされるが、情念が介在する欲望は関係性を前提とする心理的満足を求める。本来、日常を包摂する社会関係のなかで、人間の欲望がはじめて満たされる。
 だが、今日の社会では、「他者の欲望を欲望する」という文化性は徐々に薄れている。予見される欲望を満足させるために、記号化された対象がデータベースとして累積されている。マニュアルにしたがえば、欠乏が機械的に満たされる。社会的関係性が介在するはずの欲望が生理的な欲求になったという意味で、人間が「動物になった」のである。
 「動物化」はもはや受け入れるしかない。このメッセージは思想の「テロ」として十分衝撃的であろう。たしかに「大きな物語」の復権という妄想に取り憑(つ)かれるよりも、「動物化」したまま生きるほうがましなのかもしれない。
(毎日新聞2002年1月27日東京朝刊から)
以上、毎日新聞の書評。
http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0127/03.html

自己家畜化論、ちぅのが20年位まえに、はやった記憶がある、がの。読み直してみるかの。

13 名前: boggle 投稿日: 2002/04/01(月) 09:53
Yapoos

1 名前: boggle 投稿日: 2002/03/25(月) 01:10

Yapoos
Japanese Electric Music
Jun Togawa Guernica Yapoos Koji Ueno Yochiro Yoshikawa
http://artcontext.com/music/artskool/jem/jt.html
Yapoos Mania
http://www1.neweb.ne.jp/wa/yapoos/
Yapoos
TogawaJun
http://unagi.med.uoeh-u.ac.jp/~marimo/yapoos.html
『戸川純』. YAPOOS
http://www.katch.ne.jp/~fathead/jun_y.htm
戸川純 の 世界
http://www.hal.t.u-tokyo.ac.jp/~kazuya/Jun_Togawa/index.html

14 名前: <惑星ショイエル行き> 投稿日: <惑星ショイエル行き>
<惑星ショイエル行き>